あたたかな秋でしたが、朝夕が寒くなり、紅葉も散り始めました。葉を落とし、枝ばかりになった木を見るとなんだか可哀想になります。しかし見方を変えればこれは来年の春に向けて準備に入ったということでもあります。葉を落として本体の消耗を少なくして、寒い冬を乗り切ると同時に、内側では新しい葉を付ける準備作業を進めるというわけです。冬は木にとって、外面的には春から秋にかけての華々しさはなくとも、夏に負けないくらい重要な季節だと言えます。この冬の季節をどう過ごすかが、次にやってくる春を決定づけるのです。
 人の人生もこれと似ています。うららかな春や活動的な夏、さわやかな秋ばかりの人生を歩む人はいません。葉を落とし、花もなく寂しいばかりの冬の季節を迎えるときが必ずあります。今あなたは華がないことを嘆き、淋しく葉を落としていることをぼやくばかりの冬を過ごしていないでしょうか。人の評価や人の目ばかりを気にしていないでしょうか。そのような冬の時こそ神さまが働いて下さるときだと聖書は言っています。わたしたち自身が活躍しているときは、人間自身の傲慢が邪魔して神さまの働いて下さる余地がないのです。
しかし、冬の時こそその内側に恵みを満たして、次の活動の備えをしてくださいます。初代教会の伝道者であったパウロは、多くの迫害や困難に直面しながら、さらにその上に自分自身の身体の弱さもあり、何度も人生の冬を迎えたような人でしたが、弱り果てていたあるとき神さまからこのような言葉を聞いたと書いています。
       「わたしの恵みはあなたに対して十分である。
            わたしの力は弱いところに完全に現れる」。
               (コリント人への第二手紙12章9節)
 人間的な誇りや傲慢ではなく、自分の弱さを通して神さまの力が現れるような人生を歩むのだと言います。 
       「だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱いときにこそ、わたしは強いからである」。
               (コリント人への第二手紙12章10節)

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