聖書は2000年以上もの長い間、多くの人々の人生の指針となってきました。「聖書は神の言葉だから当然だ」と言ってしまえばそれまでですが、もう少し人間的な目で見ると、聖書の魅力はその多様性にあると思います。人の正しい生き方を事細かに教えているというわけでもなく、厳しい戒律がたくさん書かれているわけでもなく、さまざまな種類の書が集められたものです。紀元前にできあがった旧約聖書には39の書物があり、紀元後に書かれた新約聖書には27の書が含まれています。
 その中には善い人も悪い人も入り交じっての歴史であったり、詩歌であったり、人物伝であったり、手紙であったりします。今回はその中でも世界中の人々を魅了し、心の糧となってきた「詩篇」を読んでみましょう。詩篇はその名の通り、詩であり歌であり、祈りあったりします。詩篇は150の詩からなる詩集なのですが、いろいろなメロデーにのせて神殿で歌われたものです。
まずその冒頭に置かれている詩編第一篇の最初の部分を読んでみましょう。
    悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、
    あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
    このような人は主(神)のおきてをよろこび、
    昼も夜もそのおきてを思う。    (詩篇 第一篇1節~2節) 
 この詩篇はおそらく詩篇が編集されたときに、最後に詩篇全体を代表し、そのテーマとして置かれたものでしょう。幸いな人生とは何か、という問いに対して、お金持ちになることでも、大事業を興すことでもなく、高い地位に就くことでも、名声を得ることでもない、実に平凡な道を示しています。悪だくみをする者たちと一緒に行動せず、罪を犯さず、人をあざけるような者の仲間にならないことだというのです。しかしそれはそれほどたやすいことではないのだというのです。人は善を行うに遅く、悪を行うに早いからです。特にこのなかで、あざける者の仲間になるなという言葉が目にとまります。
 幸いな人生を送るために、悪者の道に落ち込まないために、人は主(神)の言葉を昼も夜も心に置いて、自分自身に問いかけるのだというのです。単に戒めとして、つまり自戒するのではなく、「主(神)のおきてをよろこぶ」のだというのです。いやいやではなく、聖書を読むことを一生の喜びとしたいものですね。                                                                                                    木場深川教会では、あなたの来会をお待ちしています。
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