3週間ほど前から教会の日曜礼拝で「主の祈り」を学び始めました。「主」と言うのはイエス・キリストを指しています。つまり「主の祈り」というのは、イエス・キリストが「このように祈りなさい」と教えて下さった、お祈りの原型であり、お祈りのお手本とも言うべきものです。また同時にそれは、イエス・キリストの弟子であるということを証しする「しるし」としての意味もあります。ですからクリスチャンはみな、この主の祈りを覚えていますし、日曜学校の子供でも覚えているものです。
 ところが良く覚えていて暗唱できるものですから、スラスラと言葉だけの祈りになってしまう危険をいつももっていることも事実です。そこで何回かに分けてこの主の祈りが何を意味し、何をわたしたちに求めているのかを立ち止まって考えようというわけです。新約聖書にはマタイによる福音書とルカによる福音書の2カ所に出てきますが、わたしたちが日頃祈っている主の祈りに近い形をしているマタイの方を読むことにしました。(6章9節~13節)
 最初の言葉はこのようになっています、「天にいますわれらの父よ、御名があがられますように」。天というのは「空」や「宇宙」のことではなく、神さまの国、つまり「神の国」という意味で、場所ではなく、みんなが神さまに従っている状態を指しています。世界中の人が神さまに従うようになれば、今のこの世界が神の国、天国になるということでもあります。
 そして神の国の王様である神さまを「われらの父よ」と呼びかけるのだ、というのです。この「父」と言う言葉は、旧約聖書の言語であるヘブル語では「アッバ」というのですが、この「アッバ」というのは「父上さま」というより「とうちゃん」という響きをもった、くだけた表現です。遠い、近寄りがたい神さまではなく、「とうちゃん!」と言って悲しいときも苦しいときも、またうれしいときもいつでもとびついていくのだというのです。 
 この「とうちゃん」に、お願い事だけでなく、愚痴や怒りもぶつけるのがキリスト教の祈りだと言っても良いでしょう。旧約聖書の真ん中当たりにある、詩篇は祈りでもあるのですが、正にそのような祈りを示しています。人ではなく神さまにぶつける心の思いこそ、神さまが目を細めて喜んで下さるのではないかと思います。
                                                  木場深川教会では、あなたの来会をお待ちしています。
日曜日午前10時30分からの礼拝にはどなたでも出席することが出来ます。