新しい年が始まりましたが、一か月前とは何か変わった生活が始まっているでしょうか。2015年が2016年になったからと言って、自動的に自分という人間が急に変わるということはないと思います。お正月を迎えて、「よし今年こそは」と何かを決心したつもりでも、2週間も経つとそれが何であったかさえも忘れて、12月の続きの日々が始まっているのです。しかし、それはそれでよいのではないかとも思います。そもそも今年は昨年のつづきであるわけですし、今日は昨日の自分の上に始まっているわけですから、人生の大半は継続によって成り立っているというわけです。というより昨日と今日が不連続ということは、その途中に大変な出来事があったということですから、むしろ平凡に昨年を継続した今年が始まり、昨日の続きを今日続けることが出来ると言うことは恵みというべきでしょう。大災害に遭った人はこのことを実感していると思います。
 実際には宗教改革者のルターが言ったという証拠はないのですが、こういう話があります。ある人がルターにこう聞きました、「もし明日この世が終わるとしたら、あなたは今日何をしますか」。そうするとルターはこう答えました、「たとえ明日この世の終わりが来るとしても、いつものようにリンゴの木を植えるよ」。本当に明日この世が終わるとしたら、今日植えたリンゴの木が実を結ぶことはない、ということはわかりきったことですが、人生にとって大切なことは、結果を得ることではなく、今日確信をもってゆるぎない生き方をしているか、ということを問うているのです。人格をもたないこの社会(会社)は結果を求めます。結果を出せないものは、無価値なもの、無能なもの、この社会(会社)にとっていらないものと思われています。しかし人格あるものは(人格者ということではありません)まったく別の基準で人を見るのです。
今日の聖書を開きましょう。
       わたしの目には、あなたは高価で尊い。
                   イザヤ書43章4節(新改訳)
 何か良いこと、立派なこと、他人よりすぐれているから「高価で尊い」のではありません。今日という日を神さまに信頼して生きようとしている存在そのものが尊いのです。この連続としての人生を歩みたいものです。

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