先日、右目の白内障の手術をしました。左目は仕事の諸事情で2週間後になる15日の予定です。目は子供の時からずっと視力が1.5か1.2で、メガネなしで来ていたのですが、40代後半から老眼鏡が必要になり、その老眼も進んできて、遠くの字がぼやけて見えるようになったので、今回思い切って手術することにしたのです。 一番困るのは自動車を運転していて、道路の分岐などを示す道路標識の字がはっきり読めないことです。まだ60代なので、少し早いかとも思ったのですが、これが事故につながるといけないので早めの対応です。それにパソコンや本を読むときに、老眼鏡をかけても目がとても疲れるようになったので、長く続けられないという事情もありました。いずれにしても如何に目が重要な身体の器官であるかを痛感します。
 同じ時期に家内は親知らずの歯を抜く手術をしたのですが、しっかりした歯だったので、大学病院で手術をしてもらいました。手術後はまるで大きなあめ玉を口に入れているかのように頬が膨らんでいましたが、歯一本でも大変です。人間の身体はどの器官一つが不具合でも、身体全体に、そして生活全体に大きな影響が出るものだと思い知らされます。
 聖書にこのような言葉があります。
神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになる。
それは、身体の中に分裂がなく、それぞれの肢体が互いにいたわり会うた
めなのである。もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな悩み、一つの
肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。あなたがたはキリストの
からだであり、ひとりびとりはその肢体なのである。
               コリント人への第一の手紙12章24節~27節
この言葉は教会というものが、どのようでなければならないかを示したものですが、わたしたちの身体のどこが悪くても気持ちが沈むように、教会もまた誰かに問題があるとみんなが心配し、祈り合うものだというのです。誰一人として不要な人はなく、また優劣もない。みんな神様によってそれぞれ無くてならない存在として尊いのだ、ということを人間の身体になぞらえて教えてくれています。キリスト教会はそのような場なのです。この世にあっては孤立し、無視されてきたという人も、教会には居場所があり、その人の役割がある、教会はそのような姿であり続けたいと思っています。
 
木場深川教会では、あなたの来会をお待ちしています。
日曜日午前10時30分からの礼拝にはどなたでも出席することが出来ます。