聖書の、またキリスト教のもっとも不可解な事柄として「復活」の問題があります。しかし多くのクリスチャンは復活を「不可解な事柄」と呼ぶことに抵抗があると思います。「キリストの復活は事実なのだから不可解などではない」ということだからです。そこでキリスト教の論理ではなくて、一般常識によってこの「キリストの復活」の問題を考えてみましょう。
 まず、一般常識に照らしてみて、確実に死んだ人が生き返り、永遠に生き続けるなどと言うことは受け入れられるはずはないと思います。そもそも「死ぬ」ということは、不可逆的に生きる可能性を失った状態をいうのですから、言葉の上からも矛盾しています。たしかに「一般常識に照らして」みればそうなのですが、聖書は決して「一般的に」人は死からよみがえり永遠に生きる、と言っているのではありません。世界の歴史上ただ一人、ただ一度イエス・キリストが死からよみがえったのだと言っているのです。(終末の時は別にして)
 歴史上ただ一度しか起こらなかった事に対して、人が繰り返し経験して獲得する「経験知」が正確に対応できないのは当然なのです。復活が「不可解」なのではなくて、自分の経験知が通用しない事柄だというわけです。キリストの復活は、弟子たちでさえ最初は受け入れられなかったようですから、昔の人は単純だから信じられた、と言うことでもないようです。昔も今もわたしたちの経験と常識だけがすべてであると堅く信じている人には「信じがたい」ことなのだと思います。しかし聖書は「わたしはまだほんのわずかなことしか知らないのだ」と心を低くして聞こうとする人には、昔も今も新しい人生を開いて見せてくれます。
今日の聖書の言葉を開いてみましょう。

   もしキリストがよみがえらなかったとしたら、
     わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。  
                          1コリント15:14   
まったく無学な漁師にすぎなかったペテロやヨハネといった弟子たちが、その影響が2000年後の今日にまで及ぶ大事業(世界宣教)をなし得たのはなぜなのかという問いは、このキリストの復活を信じたこと以外に答えられないのです。                          

木場深川教会では、あなたの来会をお待ちしています。
日曜日午前10時30分からの礼拝にはどなたでも出席することが出来ます。