キリスト教は愛の宗教であるとよく言われます。そしてまた赦しの宗教であるとも言われます。たしかに新約聖書には「愛」や「ゆるし」という言葉がよく出てきます。この「愛」と「ゆるし」という言葉は、もちろん言葉としてはそれぞれ独立した意味を持っていますが、聖書で使われるときには切り離すことの出来ない、密接につながり合った言葉として出てきます。

イエス・キリストが出会われた1人の女性のことが福音書に出てきます。イエスがある日、パリサイ派と言われる宗教的戒律に厳格で、潔癖な人の家に招かれて、食事をしていたときのことです。そっと1人の女性が入ってきてイエスの足下にひざまづきました。涙でイエスの足をぬらし、もってきた香油を注ぎ、自分の長い髪の毛でぬぐい、接吻しました。実はその女性は普通の女性ではありませんでした。聖書では「罪の女」と呼ばれている、おそらく福音書で遊女と呼ばれて、町の人々から汚らわしいとさげすまれていた女性のようです。

その家の主人である厳格な男は、それを見て「なんということだ。あんな汚れた女が近づくのを許すとは」、「おまけに接吻までするままにするとは」とつぶやきました。彼にとってはそのような光景を目の前で見るだけでも自分が汚れると思ったことでしょう。その時イエス・キリストは「ゆるし」と「愛」についての一つのたとえを話され、こう言われました、

この女は多く愛したから、その多くの罪は赦されているのである。
少しだけ赦された者は、少しだけしか愛さない。

この意味は、多く愛したから赦されるということではありません。むしろその逆で、その多くの罪が赦されている(完了形)ので、多く愛したのだ、と言われているのです。悔い改めの心が無く、自分の正しさを主張するばかりの人は、自分が赦されるという経験を持つことが出来ません。主イエスは、自分の罪を赦されるという経験のない者は、真に人を愛することは出来ないのだ、と言われているのです。神様の前に、「この罪人のわたしをお赦しください」とひざまづくことが出来る人こそ、神様からの赦しの愛をいただいて、人を赦し愛することが出来るように変えられるというのです。自分は正しいと主張する人間ではなく、人を愛する人間でありたいと思います。

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