わたしたち人間はホモ・サピエンスという生物学上の名前を持っていますが、これはラテン語で「賢い人」という意味だそうです。
ヒト科・ヒト属の「賢いヒト」種という、身体の特徴や特別な能力による名前ではなくて「賢い」という、何ともありがたい名前をいただいています。では「賢い」というのは、何をもって「賢い」と言われるのでしょうか。もちろん点数で表される学校の成績や偏差値でランク付けされる大学や高校に入っているということで「あの人は賢い」と言われることもあります。しかし今のように偏差値や試験の点数がなかった時代にも「賢い」という言葉は使われましたし、昔から特別な能力と言うより、その人の総体を評価する言葉として使われてきました。ですから日本語でも少しずつニュアンスが違う同類のことばがいくつかあります。たとえば「利口だ」とか「知恵がある」とか「聡い(さとい)」など普段何気なく使っている言葉があります。
 いろんなことをよく知っているということは基本的に大切なことですが、さまざまな同意語をもつ「賢い」ということは、たくさんのことを知っているという知識の量を指しているわけではありません。その場その時の判断や行動が周りの人にとって「なるほど」「ありがたい」と思わせるものがあるときに「賢い」というわけです。特にそれは古来から「言葉」が重要であると考えられてきました。人の賢さは言葉によって考えられ、人に伝わるからです。
 聖書の中の、さまざまな教訓やことわざを集めた「箴言(しんげん)」という書の中にこのような言葉があります。
      言葉を少なくする者は知識のある者、
         心の冷静な人はさときひとである。
      愚かな者も黙っているときは、知恵ある者と思われ、
         そのくちびるを閉じているときはさとき者と思われる。
                          箴言17:27-28
 この箴言のおもしろいところは、賢い言葉を語れと言っているのではなく、言葉は少なくせよ、と言っているところです。新約聖書には『もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は全身をも制御することの出来る完全な人である』(ヤコブ3:2)という言葉もあるように、ホモ・サピエンスは実に言葉によって賢くもなり、愚かにもなるということなのだと思います。
                                              
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